読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

「リリイ・シュシュのすべて」感想

リリイ・シュシュのすべて」ってすごくいい響き。ほんといいタイトルですよね。どうやって思い付いたのか分かんないですけど。ぜんぶ撮り終わった後う〜んう〜ん唸りながら編集して「もうこれしかない…」て感じで絞り出すように決めたのか、ある夜自宅で酒飲みながら突如思い付いたのかとか。後者だったら通りに飛び出して叫びながらガッツポーズくらいはすると思うんですよね。それくらい良いタイトル。何を言ってるかわからねーと思うが俺も(略

 

で、感想なんですけど、普段Twitterとかで言いたいことばっか言ってる僕ですら、書くのちょっと憚られるんです。この作品たぶん人によってはめちゃくちゃ思い入れが強くて、しかもその人の深いところのものすごく繊細な部分と繋がってるので、下手なこと言うと刃傷沙汰になりかねない。怖さはあるけど、まあいいか書きたいし。飲み会帰りで酔っ払いなうちに書いちゃえ。あとはしらねぇ。くらいの気持ちで書きます。

 

でも実は、書きたいことはそんなにない。言葉にしたい作品とそうじゃない作品があって、僕の中で「リリイ・シュシュのすべて」は後の方。大気に晒すとすぐ酸化してだめになっちゃう宝石みたいに、はっきり言葉にしちゃうと何かが損なわれる気がする。そういう。

 

でも今まで5回くらい観た中でどうしてもよく分からなかったあるシーンについて、自分なりに今回腹に落ちたことがあって、今回その備忘録的な目的もあって書いてみます。

 

津田詩織が泣くシーン。

最初観た時はよく分からなかった。あれは泣くと思う。でも理由が言葉にできない。泣いちゃうことはごく自然で、じゃあ何に対しての涙なのか?ずっと分からなかった。

 

ネットか何かで「あれは久野陽子に比べてなんて自分は弱いんだろう、という悔しさの涙」という意見を見て、なるほどと思ったんですが、それから何回か観てうーんやっぱりそれだけでは説明できないな。確かにそれもあるけどうーん…。ていう感じで。ずっとモヤモヤしてた。

 

で、昨日また観て、急にそのモヤモヤがはっきり形になった。

 

僕の勝手な思い込みに過ぎないけれど、たぶんですけど、あれ感動して泣いたんだと思うんです。久野陽子があの姿で現れたのは、あんな目にあっても、それでも折れない、犯されない領域が私にはあるという表明。その気高さと強さに、ストレートに打たれたのがあの涙なんだと思う。

 

(その直後、すべての登場人物の状況と感情が臨界に達し、訳が分からなくなったところで「飛べない翼」のイントロが爆発するように流れるので、いつも言葉を失ってしまう)

 

そしてひとしきり泣いた後、いつもの帰り道を逸れて、当て所なく歩き、津田は、久野がその様な強さを持ったこと、持たざるを得なかったことについても考えたのだと思う。ある種の人には、その人が生きてゆくには、どれほどの強さが必要なのか、その強さを要求する世界について。戦わなければ生きていけないこと、その強さを自分は決して身に付けられないだろうという想いも含めて。

 

カイトに触れて、「空、飛びたい」と願い、そしてどうしたか、そのあとは分からない。何もかも捨てたいと思ったのかも知れないし、単に自由になりたかったのかも。もしかしたら、ネガティヴな気持ちすら全く無くて、ただ本当に、今なら本当に飛べると思ったのかも知れない。それは誰にも分からない。

 

僕は思うんですけど、自殺した人に対して、「人生まだ長いのにもったいない」とか言う人居るじゃないですか。それとか、例えば死にたがりの中高生がいたとして、「高校なんて数年の我慢、人生は長いよ!」とか励ましてるつもりの人。

 

でも自殺しちゃう人って、確かに視野が狭くなっちゃってるのかも知れないけど、でもその人なりに将来を考えたと思うんです。考えて考えて考えて、それでも死を選んでしまう理由って、目の前のことではなくて、人生が長すぎるせいだと思う。

 

もしその人が中学生なら中学の三年間、社会人なら30歳になるまで、もしあと数年しか生きられないと決まっていたら、どんなに辛くても必死に生きると思うのです。自分の辛さを今の環境のせいにしてしまえる人は、たぶんそんなに死なない。死ぬ前に環境を変えたり逃げることができる。

 

理由を自分の中に見つけてしまえる人こそ、これからの茫漠として長い人生、環境が変わろうときっと今と同じかよりひどくなっていくだけだ、そんな思考に支配されてしまう。

 

そんな風に凝り固まってしまった人にかけられる言葉を僕は思いつかない。思いついたらノーベル平和賞どころの騒ぎじゃない気がする。他人に何を言われたところで…。放っとけ、とはもちろん思わないし、身近にそういう人が居たら出来る限りのことをしたい。でも最後は、その人がその人自身の足で藪の中から帰って来なければいけない。他人が腕を引っ張って引きずり出しても、その人は間を置かず藪の中に帰って行ってしまう。なぜならその場所は、少なくともその人にとっては懐かしく馴染み深い場所だから。

 

そう考えるとたぶん、「リリイ・シュシュのすべて」は、帰ってきた人と帰って来れなかった人の話でもあって、その中で蓮見は、藪の中でもう本当に消えかける寸前まで行き、その場所から、手を生贄の血で濡らしながら帰ってきた人ということになる。

 

ラスト、一心にアラベスクを弾く久野と、久野を眺める蓮見のシーン。生きる強さ。全く違う種類の。たぶん、彼と彼女が結ばれることは決してない。

【ネタバレ注意】「LA LA LAND」感想文

※この文章は映画「LA LA LAND」の感想文です。ストーリーの核心部分のネタバレを含みますので、まだ鑑賞されていない方はご注意お願いします。というか本当にネタバレ無しで、まっさらな状態で観てほしい。ほんとうに素晴らしかったから。

 

 

 

 

 

この映画は、人生を精一杯生きようとする全ての人々へのエールだと感じました。

 

作中、「扉を開ける」シーンが何度もあるのだけど、これは主人公2人の転機や選択を表すモチーフなんだと思う。2人が出会うジャズバーの扉、キースのバンドが待つスタジオの扉、初めて喧嘩した夜のセブの部屋の扉、最後のオーディションが待つ面接室の扉、印象的なシーンや転機となるシーンの前に必ずと言って良いほど、2人は扉の前に立つ。未来へ向かうこと、進路を選び取る意思を扉を開けるという能動的な行為に象徴させることで、この映画のメッセージが強い力を帯びる気がする。

 

彼女達は何度も扉をノックし、たたき、開いてその先の世界へ飛び込んで行く。例えその度にやり切れない思い、魂を切り裂かれる様な痛みを味わったとしても、彼女達は次の扉をたたく事をやめられない。もしかしたらもう駄目かもしれない、自分には才能が足りないのかも知れない、運だって味方してくれないのかも知れない…そんなふうに何度も挫折を味わいくじけそうになっても、それでも立ち上がり前を向く姿は、ただそれだけで美しい。僕もそんな風に生きたいと、そう率直に思わせてくれるのは、やっぱり映画の…歌と音楽、役者の演技、映像美、脚本…そういった全てのものの力だ。

 

これはそんな風に苦悩しながら夢を追いかけ、かなえた人々の話です。そして夢をかなえた所で、何もかもをつかみ取れる訳じゃない事も、この映画は語っている。

 

クライマックスは色んな捉え方があるけれど、あの煌びやかな空想シーンが切なく、魅入られるように綺麗なのは、2人が自分の歩んできた道に後悔していないからこそだと思う。何か一つ手応えをつかもうとすれば、その他のものを諦めなければいけない。2人は最初からその事を知っていた。だから最後に2人はうなずき合い、微笑みさえも交わす。そして歩んできた道への誇りと、あり得たかも知れない過去と未来への憧れ、そういうものを2人は音楽と眼差しだけで共有し合うことができた。ただそれだけの事でも、ほとんど奇跡だと僕は思う。悲しいどころか、あんな失恋があったら最高じゃないかとさえ。

 

「LA LA LAND」、それは生きるエネルギーと、最高の失恋を描いた映画だ。

SMAP×SMAP最終回を観てしみじみ泣いた後に書いた文章

SMAP×SMAPの最終回をお酒飲みながら観て謎のハイテンションに至った挙句、ものすごい長い連続ツイートでTLを荒らしまくった反省から、「長い文章はブログに書いた方がよい」ことに気付いた(一般常識)結果、当ブログを始めるに至りました。

 

以下はその時の文章の転載です。

 

 

SMAPが無くなってしまって悲しい。特にファンでもないのになぜか悲しい。にわか乙とか、バラエティ番組の演出に本気で感動しちゃって単純ね、とか言われたらそれまでだけど、ファンでもないのに泣いちゃった人って案外多いんじゃないかと思ったし、だからこそSMAPは"国民的アイドル"なんだとも思う。

 

思い起こせば、2年前に27時間テレビフィナーレのSMAPライブを観ながらぼんやり考えた事だけど、"アイドル"という存在って、極端な話単なるウソでしかない。華やかなだけじゃなくて、裏ではきっとドロドロした事も沢山あるけど、テレビの前ではキラキラした所だけ見せている。

 

それをウソだと言うと、確かに身もフタもない。でもそのウソを信じて乗っかる事がファンになるという事だし、"夢を見る"ってつまりそういう事なんだと思う。

 

キムタクと言えば何でもできてイケメンの代名詞で、慎吾ちゃんは弟みたいないじられキャラで、吾郎ちゃんはちょっととぼけてて、草彅くんはめっちゃ良い奴で、中居くんはみんなをまとめる理想のリーダー…みたいな。メンバー1人1人が本当にはどんなヤツかなんて、関係者以外は誰も知らない。でも、とにかく何の根拠も無くそう信じている。人によって多少違っても、おおよそ似たようなイメージをみんなが共有している。それは一種の共同幻想だ。それも国家的な規模の。SMAPに対して、そんな物すごい現象が実際に起こっていた。

 

アイドルなんてウソっぱちだから、「下らない」と言う人もいる。その通りかも知れない。でも、すごく寂しいものの見方かも知れないけど、アイドルのファンになるということは、いやアイドルじゃなくてもいい、誰かを好きになるということは、ウソを受け入れることなんじゃないだろうか。その人のここが好き、こんなところが素敵。でもその人が本当に何を考えているか何て誰にも分らない。心を動かされたその振る舞いも、単なる演技だったり、ゲスい目的が隠されているのかも知れない。その人自身にすら分っちゃいないこともある。

 

でも僕らだって、そんな事は薄々分っているのだ。分った上で、僕らは心動かされることを止めることができない。なぜならその人が好きだし、信じているから。"好き"って詰まるところ、そういう矛盾を抱えることなんじゃないだろうか。更に言うと、本当に大事なことはその人がウソをついているかどうかですらない。大切なことは、SMAPが国民的アイドルなのは"本当"だし、その解散をこれだけ沢山の人が悲しんでいるのも紛れもない"本当"だということ。たくさんの人々が彼らを好きになり、知らず知らずのうちに信じたからこそ、彼らはアイドルだった。ウソをつく側、騙される側が手を取り合って作り上げたもの、それがSMAPだった。彼らが " 国民的アイドル " だったことだけは、誰にも否定することなんてできない。

 

ウソ(かも知れない何か)から"本当"が生まれた時、ウソがウソだったかどうかなんてどうでも良くなる。ウソと本当の違いが大した事じゃなくなる。

 

"本当"を生み出すウソ。人はそれを大昔から、「物語」と呼んできた。

 

信じること、夢を見るということの価値は、「物語」を生み出すことにある。

 

SMAPという物語はもう本当に失われてしまったし、この先同じ様な存在が出てくるアテもない。一篇のとても長大な、かけがえのない物語が終わった。こんなに悲しいのは、だからなんだと思う。